4月上旬 大きな余震、津波被災地を見る(東日本大震災1か月ごろ)

4月上旬になるとスーパーの品揃えも徐々に回復はぁ、やれやれと思ったところに起きた大きな余震……。本震よりも大きな地震が来るかもしれないと言われていたのでかなりの恐怖でした。そして津波被災地を自分の目で見た、震災後1か月ごろの反省日記です。

順調な復興と思いきや、大きな余震に見舞われる

スーパーの品揃えがよくなり始める

スーパーで物は買えるけど品揃えはあまりよくなかった3月下旬に比べて、4月に入ってからはいろんな物が売り出すようになりました。

嬉しかったのはマスク!

花粉症なので春・秋はマスクがないと困るのですが、なかなか手に入らなかったんですよね~。元々防災備蓄で100枚くらいはあったけど、災害と花粉症シーズンが重なると100枚では足りなくなることが分かり、備蓄量を200枚に増やしました。おかけでコロナ禍に非常に助かったのですが、パンデミックだと1日に何度も取り替えるので、200枚の備蓄でも不安になり、いまは日常備蓄(ローリングストック)で300枚です。ちゃくちゃくと増えるマスク。

また卵や乳製品、仙台港にあるビール工場が被災したのでビールなども品薄でしたが、少しずつ復活し始めました。

本震を上回る地震が来るかもと言われていたので、カセットボンベやろうそく、電池など防災グッズは売り切れていることが多かったです。

しかしまあ、やれやれ。
もう少ししたらちょっと落ち着くのかな?と、ホッとし始めていました。

4月7日 余震 宮城県沖地震 23時32分 Mw7.1 最大震度6強

そのときは台所で肉じゃがをつくっていました。いつも肉じゃがなんて作らないのですが、野菜やお肉も手に入るようになったので嬉しかったんだと思います。普段は簡単な料理ばかり。

ふんふ~ん♪と鼻歌気分でジャガイモの皮をむいていたら、ガツン!と突き上げるような縦揺れが。そしてグラグラグラッ!と横揺れがきたので、慌てて包丁とまな板をシンクに放り込み割れ物が多いキッチンから、物が少ないリビングに逃げました。

どちらかと言うと、直下型地震の「揺れの質」に近く、阪神・淡路大震災を彷彿とさせて、このまま大きく揺れるのでは!?と気が気ではありませんでした(「揺れの質」については3月11日の日記参照)。

テレビを見ると最大震度6強。うちは震度5強ぐらいのようです。

震源は宮城県沖とのことで、本震の震源より陸地に近いそのため揺れが強かったのだろうと思われます。本震は長い横揺れでしたが、揺れの強さで言うとこの余震の方が強く感じました。

もしもこれが「本震を上回る地震」の前震で、阪神・淡路大震災のようなしっちゃかめっちゃかな「揺れの質」で揺れたらどうしよう……。と、かなり怖くなりました。

鼻歌気分もどこへやら。すっかり意気消沈してしまったのですが、ジャガイモの皮も向いてるし、すでに玉ねぎ・ニンジンは切り終わってしまっています。煮込み時間が長くなる肉じゃがを作り続ける気分にならなかったので、カレーに変更して作り終えました。

いま考えたらどっちもどっち。煮込まずに作れるポテトサラダとかにすればよかったなと思います。動揺してたんでしょうね……。

調理中にこれだけ大きな地震にあったのは初めてでしたが、「地震の揺れで包丁が飛ぶ」という知識とイメージがあったので、すぐにシンクに放り込んだで逃げたのは我ながらえらかったと思います。イメージトレーニング大事。

うちはちょっと物が落ちたぐらいで停電しませんでしたが、仙台市北部では停電したそうです。翌日、職場に行くと同僚が打ちひしがれていて気の毒でした。そりゃイヤになるよね~。

しかし、大きな地震の後には余震は必ずあるもの。これまでもそう思っていましたが、1か月近く経ってもこんな大きな余震があるんだな!と、より一層気を引き締めました。

震災ごみを捨てに行き、津波被災地を見る

宮城県では3月中旬ごろから、震災によって壊れた粗大ごみ(以下「震災ごみ」)を一時的に保管する仮置き場が設置されました。粗大ごみの回収はその間停止していました。

「東日本大震災における震災廃棄物処理の記録」

我が家では石油ファンヒーターが1台壊れただけだったので、持ち込みに行ってかえって邪魔になっては申し訳ないと思い、しばらく家に置いていました。しかし、4月下旬には閉鎖するかもしれないという情報があり(実際は5月上旬だった)、少し落ち着いてきたようだったので仮置き場に持っていくことにしました。

震災ごみの仮置き場は津波被害の大きかった沿岸部の近くにありました。

仮置き場は遠くから見てもわかるくらい、震災ごみがうず高く積まれていました。身長の何倍もの高さに整然と積まれた震災ごみは高い壁のようで、間には通路ができていました。入り口から誘導にしたがって車に乗ったまま奥に入っていくと、職員と思しき人が「ここに置いて」と身振り手振りで教えてくれました。

テレビで見る、津波で運ばれてきたがれきは無秩序で、圧倒的な自然の力で破壊されつくした恐ろしさがありましたが、目の間に整然と積まれた、へどろで汚れた布団や畳、穴が開いたタンスや足が折れた机は、使っていた人たちの生活が垣間見えて、悲しい気持ちになりました。

壊れた石油ファンヒーターを置き、行くべきかずっと迷っていたのですが、帰りは津波被害にあった地域を通って帰ることにしました。

道を一本、海の方に渡っただけなのに、すっかり様子が変わりました。

目立つがれきは撤去されているものの、田んぼには泥や木が残り、道路は乾いた土が舞い上がってほこりまみれ。かろうじて立っている家も1階部分が壊れていたり、庭に船があったり。津波に飲まれた車は基本的には一か所に集められたようですが、それでも逆立ちをした格好で木にもたれかかる車や中央分離帯に裏返ったまま残された車もありました。

あまりに非現実的で、見たことがある風景が変わってしまったことに驚きましたが、なにより津波の恐ろしさを実感したのは、はるか頭上で折れ曲がった街灯や電柱でした。泥に汚れ、枯草が巻きついていたので、そこまで津波が来たことがよくわかりました。

「津波が〇メートル来ました」と聞かされても、なかなかピンと来なかったのが、津波被災地に身を置くことでスケール感がよくわかりましたこの圧倒的な質量に押しつぶされたなら、逃れることは難しいだろうと思いました。

わたしの勤務先は仙台市の中心部だったので無事でしたが、職員の家族や親戚、友人には津波の犠牲になった人もたくさんいました。あまりできることも多くないけど、わたしはわたしにできることで、いま住んでいる仙台のためにがんばろうと思いました。

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